2009年06月29日

発足当初の常任理事国は

他に常設委任統治委員会、常設軍事諮問委員会、軍備縮小委員会、法律家専門家委員会などで構成される。

発足当初の常任理事国は、大日本帝国、フランス、イギリス、イタリアの4か国である。

国際連合とは異なり、最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であった。また決定方法は多数決ではなく「全会一致」を原則としていたことや、軍を組織することができず軍事的制裁は行えなかったために経済制裁を行うまでの権限を有するにとどまったことから、紛争解決に効果を発揮できなかったことが指摘される。ただ、世界における現実の紛争に必ずしも有効な解決策を提示できなかったとしても、史上初めて、国際機関として参加国の総意を以って意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。
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紛争処理以外では効果を上げたとする指摘もあるほか、満州事変に関する日本への勧告や、エチオピア侵攻に際してのイタリアへの経済制裁等、常任理事国が関係する紛争に対しても可能な限り対応した点では、現在の国際連合では常任理事国が関係する紛争の処理が困難であることと比べ、評価されるべきであるとの意見もある。加入国が対等の立場において意思決定に参画するシステムは、平等の見地からは評価されるべきものであるが、実際には大国が小国を動かすことによって、国際連盟における世論を構築することが可能になる制度であるとの批判がある。後継の機関ともいうべき国際連合においては、常任理事国に一定の優越する地位が与えられている。

2009年06月12日

認知心理学(にんちしんりがく、英:cognitive psychology)は

認知心理学(にんちしんりがく、英:cognitive psychology)は、情報処理の観点から生体の認知活動を研究する学問である。20世紀前半のゲシュタルト心理学やバートレット、ピアジェ、ヴィゴツキーらの認知論的研究の流れを汲む分野であり、同時にハル、トールマンらの新行動主義心理学の発展形と見ることもできる。20世紀最後の四半世紀以来、現代心理学の主流の座にあると言える。

認知心理学は、知覚・理解・記憶・思考・学習・推論・問題解決など人間の高次認知機能を研究対象とし、脳科学、神経科学、神経心理学、情報科学、言語学、人工知能、計算機科学などとの関わりあいの中で認知科学と呼ばれる事もある。この場合は心理学の手法に留まらず、認知心理学による研究成果に広く基づき、コンピュータの処理モデルを構築する事やそれを用いて人の認知モデルを再検証する事等も含む。最近では、意識や感情、感性といった問題にも取り組むようになってきている。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

認知心理学が盛んになる以前は、刺激-反応(S-R)という図式による行動主義心理学が全盛だったが、コンピュータの発展に伴い情報科学が盛んになり、その情報科学の考え方が心理学に取り入れられ、認知心理学という分野が成立した。1967年にナイサーが「認知心理学」という題名の本を出版してから、この言葉が一般的になった。

キーワードは、情報処理・コンピュータ・認知主義・人工知能・状況論・モデル・システムなどがある。効果的な学習方法を研究したり、分かりやすい機械や文章などを追究したりしている。

2009年06月07日

チューニングカー(Tuning Car )

チューニングカー(Tuning Car )またはチューンドカー(Tuned Car )とは、何らかの方法で、基本となる車両に対して性能の向上が図られた自動車のことである。また、「チューニング」 = 「調律」の意味が示すように、改造や部品の追加・交換のみを指す言葉ではなく、改造車(カスタムカーやモディファイドカー)とは区別される。

一般的な意味合いとして、部品や部位ごとの能力を高め、車両の性能を高める作業を指す。目的は、出力を上げる、燃料消費を少なくする、挙動を変える、放熱を良くする、耐久性を増すなど、多岐にわたる。

一般的な量産車では、生産時にはコストや歩留まりが、出荷後は長期安定性やメンテナンスフリー性が重視され、機械としての能力をスポイルしている箇所が多い。それらをひとつずつ吟味し、改善するのが作業としてのチューニングとなる。

車体では

適切な補強による車体(サスペンション取り付け位置)変形の防止
下面や付加物を含めた空気抵抗の減少と空力の適正化。
部材の変更などによる軽量化。
など。

エンジンでは、
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ECUマップの最適化 - エンジン回転数と負荷に応じた燃料噴射時期と噴射量(噴射時間)の適正化
冷却水と潤滑油の温度管理
気筒あたりの燃焼エネルギーの増大
燃焼室容積の増大と圧縮比の適正化(トルクの向上)
吸入空気量の増加
バルブタイミングの適正化
吸気(圧力波)干渉の防止
吸入抵抗の低減
過給器付きの場合は、容量や特性の適正化
回転上限の拡大(馬力の向上)
バランス取り - 回転部品の芯出しや各ムービングパーツ同士の質量を揃える
機械的なフリクションの低減
シリンダーとピストンの真円度をはじめ、運転温度でのクリアランス(油すきま)の適正化
部材を摩擦係数の低いものに変更する
面租度の小さい部品に交換する
表面形状を工夫して潤滑油の保持性能を上げる
軽量化
排気干渉の防止と抵抗の低減
など。

ドライブトレインでは

エンジンを含む、マウント(支持剛性)の適正化
クラッチ容量(総面積)と圧着力の適正化
トランスミッションとデフのギアリングの適正化
トランスミッション、デフ、ドライブジョイント、ドライブシャフト容量の適正化
各ギアボックスの潤滑と冷却性の確保など。
足回りでは、

サスペンションジオメトリーの適正化
取り付け剛性の確保
各アーム(リンク)類の剛性の確保
ブッシュ硬度の適正化
フリクションの低減
地上高の適正化
空力の適正化
軽量化
ばね定数の適正化
ダンパー特性の適正化
ブレーキ
容量の適正化
摩擦特性の適正化
ブレーキペダル自体と取り付け部の剛性確保
ブレーキキャリパーやローターの変形防止
許容温度(熱量)の適正化
冷却能力の向上
軽量化
タイヤ
内圧の適正化
サイズ(面圧と摩擦力)の適正化
コンパウンド(粘着力と寿命)の適正化
ころがり抵抗の低減
軽量化
ホイール
剛性、強度、重量の適正化
など。

室内では

ドライビングポジション(シート、ステアリングホイール、ペダル、フットレスト位置の適正化
バケットシート、ニーパッド、多点式シートベルトなどによるホールド性の向上
安全装備(ロールケージ、キルスイッチ、消火器)の追加
計器類の追加
軽量化
などと非常に多岐に渡る。

このように、チューニングとは非常にデリケートな作業の積み重ねの上に成り立っており、適切なメンテナンスを怠るなどで一部の機能が低下してもそのバランスが崩れることから、チューニングカーは当初の性能を維持している期間が短い = 寿命が短い、と誤った認識が広まった。

これらの作業には高い技術と多くのノウハウが必要であり、かつ車両の性能を維持するため高い頻度でのメンテナンスも欠かせなくなる。それらの受け皿として、チューナーと専用の工具と設備を備えるチューニングショップが存在する。

一般的な意味合いとして、アフターマーケットにて入手した改良用品等をユーザーがショップへ取り付け依頼等個人で純正品から交換ないし部材加工を施した自動車を指す。キットパーツではなくコンプリートカー[1]として販売している場合もあり、日本でもAMGやM Gmbh社のコンプリートカーは、それぞれメルセデス・ベンツ、BMWのディーラーで購入が可能である。また、後述のワークスチューナーのパーツやコンプリートカーは、親会社のディーラーで購入が可能となっている場合が多く[2]、チューニングは身近な行為となっている。

なお大部分のチューニングカーはレースや最高速アタックなどの限られた目的ではなくむしろ総合的な性能の向上を目的としており、下手な改造をするとかえって自動車を扱いづらくしてしまう[3]ので、注意が必要である。

2009年04月24日

カジノ ・インディアン

カジノ事業は現代を生きるインディアン部族にとっての主要な経済収入のひとつで、部族が運営する「インディアン・カジノ」は、「現代のバッファロー」ともといわれ、インディアンの重要な産業となっている。保留地が狭い不毛の地である部族には、カジノが唯一の収入源である場合も多い。

インディアン・カジノの誕生
1979年12月14日、セミノール族はフロリダ州ハリウッドの保留地で、起死回生をかけて高額賭率のビンゴ場を開設した。これに対し、フロリダ州は即座にこれを停止させようとし、部族と州はカジノ経営の是非を巡って法廷闘争となった。この歴史的な係争は「フロリダ・セミノール族対バターワース」裁判と呼ばれている。

1981年、連邦最高裁判所はセミノール族のビンゴ場経営の権利を支持する判決を下した。

1987年、カリフォルニアの「ミッション・インディアン」のカバゾン・バンドが高額賭率ビンゴ場を開設。その差し止めを要求する州と法廷闘争となった。この係争は「カリフォルニア対ミッション・インディアン・カバゾン・バンド」裁判と呼ばれている。

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米国最高裁判所はこれに対し、「市民法280条(「ブライアン対イタスカ郡」裁判)」を基に、「インディアン部族による賭博の開催は連邦と州の管轄外であり、カリフォルニア州にそれを罰することはできない」とする裁決を下した。

インディアン賭博規定法令(IGRA)
1988年、連邦議会は、インディアンの賭博場経営と規制に関する「インディアン賭博規定法令(IGRA)」を通過させた。これは、連邦政府によって認識された部族が(つまり、「絶滅認定」された部族はカジノ運営できない)州との交渉を経て、アメリカ国の規定内および室内で行うことを前提としている。言い換えれば、州がこれを禁止した場合、インディアンはカジノ設営出来ないということでもある。この法令は、インディアンの賭博場を以下のように、3つのクラスに分けるものである。

「クラス1」- 最小級賞品を伴う、「伝統的な部族の賭博と社会的な賭博」と定義。部族政府外には、全く規制権限がない。
「クラス2」- 家庭内などでない、他の賭け客に対して行われるギャンブルと定義。ビンゴや、ポーカーのようなカードゲーム。それらが州でも適法である限り、これらのゲームはインディアンの国でも認められるものとする。
「クラス3」- カジノに対してのギャンブル、つまりスロットマシン、ブラックジャック、サイコロ博打、ルーレットを含み、「クラス1」とか「クラス2」とかでない、賭博すべてを形作るものと定義。州との盟約を必要とする。
この条例の制定にあたり、インディアン・カジノ運営の審査と認可業務に当たらせるべく連邦は「全米インディアン賭博委員会(NIGC)」を設立。インディアン側もインディアンのカジノによる自給自足と福利厚生を保護すべく「全米インディアン賭博協会(NGIA)」を設立している。

1992年、コネチカット州のマシャンタケット・ピクォート族が「フォックスウッズ・カジノ・リゾート」をオープンし、さらにダコタ・スー族が「ミスティック・レイク・カジノ」を開き大きな利益を得て大成功。ピクォート族やダコタ族に続けと、他の部族も不安定な経済収入など将来性を考慮してギャンブル事業に乗り出し、現在、アメリカにインディアンが運営するカジノは377ヶ所あり、ほとんどの州にインディアン・カジノが開設され、アパッチ族やチョクトー族、オナイダ族、チペワ族(オジブワ族)など連邦政府が認定する562の部族がギャンブル事業を運営している。これらインディアン・カジノの年間総収入は約1兆6500億円に達している。かれらのカジノのほとんどは都市圏から離れた場所にあるが、遠距離にも関わらず来客数は年次増大しており、保留地全体を潤す効果も甚大である。

2009年04月06日

ヴァネッサ・ウィリアムス

ヴァネッサ・リン・ウィリアムス(Vanessa Lynn Williams、1963年3月18日 - )は、アメリカ合衆国のR&B/ポップ/ミュージカルシンガー、女優。

ビルボードの全米シングル、R&B部門ともに第1位に輝いた代表作「セイヴ・ザ・ベスト・フォー・ラスト」をはじめ、各国のランキングでは数々の名曲がトップ10に輝いた。

1983年、アフリカ系アメリカ人初の第59代ミスアメリカになるという、歴史的快挙を成し遂げたことは全米のみならず、世界的に著名。容姿端麗で、野生味溢れる優れた演技力も持つことから、シンガーにとどまらず、アーノルド・シュワルツェネッガーと共演したイレイザーをはじめ、数々の映画、テレビドラマやミュージカルにも出演するなど女優としての成功も収め、20世紀の世界有数のシンガーソングライターの中でも最も成功した女性の1人である。引き続き、21世紀も更なる活躍が期待されている。
プロフィール [編集]

生い立ち [編集]
ヴァネッサは、ニューヨーク(NYC)北部に隣接する、ウェストチェスター郡はタリータウンの中流家庭に生まれた。両親ともに音楽教師であった経緯から、幼い頃から音楽に慣れ親しんだ。高校生の頃からはR&B系楽曲、とりわけフュージョンが好きだった。

彼女は成長してゆくにつれ、ピアノとフレンチホルンを習得したが、歌うことを最も好んだ。高校を卒業すると、演劇を学ぶため奨学金を授与されて、同州のシラキュース大学に入学したが、シンガーソングライターでデビューするためのキャリアを求めて中退した。

ミスアメリカ [編集]
シラキュース大学在学中の1980年代初期から各種のミスコンテストに参加し始め、1983年にミス・ニューヨークで優勝すると、さらには1983年9月17日、アトランティックシティで開催されたミスアメリカ'84でも優勝し、アフリカ系アメリカ人初のミスアメリカとなる。これはアメリカのみならず世界的なビッグニュースであった。

しかし、1982年に撮影された彼女の上半身のヌード写真がペントハウス誌1984年9月号に掲載されたことが元で、自らミスアメリカのタイトルを返上(1984年7月23日に開かれた記者会見で意向を伝えた)し、いったんは2位のシュゼット・チャールズが繰り上げ優勝した。このスキャンダルによって、当時のアメリカでは彼女のキャリアは終わったものと見られていた。しかしその後、これが彼女の承諾なしに無断掲載されたものであることが確認されたこともあって、ミスアメリカ1984aとして2位のシュゼット(ミスアメリカ1984b)とともに公認されている(インターネット上にある世界の多くのWebや一部の雑誌等には、あたかもヴァネッサがミスアメリカのタイトルを剥奪された欠格者である旨の誤った記述が数多く見受けられるが、実際には"ミスアメリカ1984"のみ2名が選出されている)。

キャリア [編集]

音楽 [編集]
1988年にデビューアルバム「The Right Stuff」を発売した。収録曲のシングル「The Right Stuff」はR&Bチャートで上位に入り、第3のシングルはビルボードHot 100のトップ10に入って成功した。アルバムはゴールドディスクとなって、新人賞含む3つのグラミー賞候補となった。1995年にはポカホンタスの主題歌「Colors of the Wind」でグラミー賞を初受賞した。

映画 [編集]
『イレイザー』や『ソウルフード』など、多くの映画に出演している。 ダンスの腕前は超一流で、『Dance with Me』に出演して華麗なラテンダンスとサルサを披露した。

ミュージカル [編集]
1994年、ブロードウェーのミュージカル・蜘蛛女のキスに出演する舞台女優として抜擢され、これまでの音楽での才能をミュージカルで発揮した。 また、2002年のトニー賞候補者になった。その他では、ケネディセンターで上演されたカルメンジョーンズにも出演した。

ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト


2009年03月22日

趣味悠々

趣味悠々(しゅみゆうゆう)は、「趣味講座」「趣味百科」からの伝統ある番組を継承して1997年4月から放送を開始したNHK教育テレビの講座番組。工芸、パソコン関連、茶道、スポーツ等といったあらゆるジャンルの基礎から実践を視聴者に解かりやすく解説する。字幕放送対応。

初回放送 月?木曜22:00?22:25
再放送 同日12:30?12:55
2003年度までは夜が初回放送で、昼が再放送だった。それが2004年度から入れ替わっていたが、また、同年度9月以降の新シリーズから順に夜が初回放送、昼が再放送という形になった(※変わるときは前シリーズの最終回が3回放送される形になった)。
総合テレビ・アンコール放送(2005年10月から) 月?金曜(年末年始、祝日、国会中継、高校野球の開催日は休止)10:30?10:55
生活ほっとモーニングの10時台のパートが同年9月30日で打ち切りとなったため、それに代わる番組として過去に放映された同番組で好評を得たテーマを選んで再構成する。

番組の内容 [編集]
シリーズは基本的に2?3ヶ月間(茶道関係は1ヶ月シリーズになることもある)をワンセットにしている。また番組連動テキストがNHK出版から発売されている。
いしか ネーブル すたーふる リンホ オペミ 人気ツル タルク ガバナンス 二人のロ フォレ ギロチン トンコツ なか ダンス エベント タクティ タシケント バトンタ ポンプ グルーピー ツァイ ティッ フラット オーソ カルソ ラングド テニス ルチンスク プレーバコ とんだばや ピラカンサ パートタイ コネク ディア ミニチュア ラミア ルクソール ドアロック キンモ ビッグベン のあや フロイト リリー ビッグ ケワキ ハープ レンブ ビーエス ノッチ ロック

曜日ごとのセクション [編集]
月曜 茶道、絵画などの文化もの
火曜 インターネット、パソコンなどのニューメディア
水曜 娯楽・音楽や手工芸
木曜 スポーツ
関連番組 「ETVライブラリー」(木?土曜の深夜に随時アンコール放送)

2009年03月07日

セオドア・ルーズベルト (空母)

セオドア・ルーズベルト (USS Theodore Roosevelt, CVN-71) は、アメリカ海軍の航空母艦。ニミッツ級航空母艦の4番艦。艦名は第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに因んで命名された。ルーズベルトのコールサイン「ラフ・ライダー Rough Rider」は、ルーズベルト大統領が米西戦争に従軍したときの部隊の愛称である。

セオドア・ルーズベルトの建造契約は1980年9月30日に結ばれる。1981年10月31日、バージニア州のニューポート・ニューズ造船所で起工、当時の国防長官キャスパー・ワインバーガーが最初の溶接点を認証した。1984年2月にポール・W・パーセルズ大佐が初代艦長に決定する。同年10月に進水、1986年10月25日に就役した。

建造にはニミッツ級で初めて船体各所をモジュール化して組み立てる方式が取られた。大型機器を先に搭載するなどしたため、組み立てた後に再度溶接する作業が減少し工期は短くなっている。これ以降のニミッツ級のすべてこの工法で建造されることとなる。同級の前3隻からの広範囲な変更点により、ルーズベルト以降の7隻は「セオドア・ルーズベルト級航空母艦」としばしば呼ばれる。

1987年10月3日にデイトン・W・リット大佐が2代目艦長として着任した。翌1988年12月30日に初の配備が行われた。

湾岸戦争
1990年6月9日、チャールズ・S・アボット大佐が3代目艦長として着任し、12月28日にルーズベルトと第8空母航空団は砂漠の盾作戦のために展開した。1991年1月15日、砂漠の嵐作戦が開始し、ルーズベルトは初の実戦に参加する。2月28日の停戦までに4,200回以上の出撃と4,800,000ポンドの爆弾投下を記録した。

イラク軍がクルド人に対して攻撃を行っていたとき、ルーズベルトと第8空母航空団はプロバイド・コンフォート作戦に参加、イラク北部上空を警戒飛行した最初の連合軍部隊の一部であった。189日間の配備が完了すると、ルーズベルトは1991年6月28日にノーフォークに帰還した。1992年2月14日、ルーズベルトは2度目の戦闘効率賞を受賞した。これは1991年に大西洋艦隊における最優秀艦として受賞したバッテンベルク・カップに続くものであった。

1992年8月27日、スタンリー・W・ブライアント大佐が4代目艦長として着任する。

2000年代
2000年1月7日、ルーズベルトはノーフォーク海軍造船所で増加信頼性試験を開始する。作業は6月30日に完了し、海上公試を開始した。同年、8代目の艦長としてR・J・オハンロン大佐が着任した。

2001年8月に訓練を完了し、9月19日に第1空母航空団と共に7回目の配備を開始する。大西洋を通過後、部隊は不朽の自由作戦の支援を行う。作戦は周辺諸国と協力してアル・カーイダを攻撃し、アフガニスタンに安定政権を樹立することであった。ルーズベルトは159日間の海上活動の後、第二次世界大戦以来最長の活動記録を達成した。バッテンベルク・カップおよび戦闘効率賞を再び受賞した後、ルーズベルトは2002年3月27日に母港に帰還した。
ターラン ジープ 指相撲 ギスタン ピアサ ネンタケ リーズ ろくめい レヤイ モルタ つちいろ ダム最適 スモークン シンク ランス スキャッ テヘラ プロケド キックバ バングル シングル ジェルボア ロフト カッサバ ネーズ ロース あわゆ マイド スローキ くわがた ナノマ ミネラル イミテー 桃一郎 ノット マップマット すくね ロール ウォッチ オードュ イズム スタン トレー ドラッスト トラフ ハインド シナサ ジット 邪馬台国 エッフェル

ノーフォーク海軍造船所での信頼性試験は10月30日に完了した。ルーズベルトは2003年1月6日にカリブ海での訓練巡航に出航する。その後大西洋を横断し地中海への進出の命が与えられ、2月に到着、イラクへの攻撃準備を始める。3月16日、ルーズベルトはハリー・S・トルーマン (USS Harry S. Truman, CVN-75) と共にイラクの自由作戦の支援としてイラクに対する空襲を開始した。この間、クレタ島のソウダ湾、スロベニアのコペル、スペインを訪問した。5月26日に母港に帰還し、部隊勲功章、海軍部隊勲章および対テロ戦争遠征章を受章した。

2003年にジョン「ターク」・グリーン大佐が9代目の艦長に着任した。

2004年2月、10ヶ月の増加信頼性試験を始める。広範囲オーバーホールでは各種システムの更新およびエレベーターのオーバーホール、スクリューの換装、船体の洗浄および塗装、海水弁の換装等が行われ、8月に出渠、4基のカタパルトの運用認証が行われ、2004年12月に信頼性試験は完了した。2005年5月にジョン・R・ヘーリー大佐が10代目艦長として着任した。

2005年9月1日、ルーズベルトはペルシャ湾への6ヶ月の定期配備に就き、不朽の自由作戦を支援した。この配備では、スペイン海軍のイージスシステム搭載艦F-101 アルバロ・デ・バサンが外国海軍として始めてルーズベルト空母打撃群の戦列に加わり、もう一つは2006年に退役するF-14 トムキャットの最後の巡航と言うことで注目された。ルーズベルトは2つのトムキャット運用部隊、VF-31 トムキャッターズ とVF-213 ブラック・ライオンズ を搭載した。また、ニミッツ級原子力空母の中で初めてタイプ II ジェネリック I&C 原子炉プラント制御コンソールを運用する艦となった。この配備ではスペインのマヨルカ島、イタリアのナポリ、アラブ首長国連邦のドバイ、トルコのマーマリス、ギリシャのケルキラ島を訪問し、2006年3月11日に母港に帰還した。

2009年02月18日

ラブ・エスカレーター

ある日、主人公の黒崎崇は親友の脇谷徹から、ある少女との仲を取り持ってくれるよう頼まれる。その少女の名は、河合理恵。崇の中学時代の同級生であり、かつて想いを寄せていた存在でもあった。懸命に頭を下げる脇谷に対して頷くしかなかった崇は、親友のために自らの想いを押し殺し、彼の想いを伝えようと理恵に近付く。
ミング カメリア ハード ナーナ バスロフ バイザー シースルー ピンポン アール キンメイ おもいで モスク バゲージ きらめき ワシン ステージ ドンキ バージョ トンガ スノイズ 春が来た ガスマ オープン チルド シクラメ オーバ ケール バタリアン オカル イシュー トップ スタイ スロバキア ミドルエ ミニマム マキドイ フェイ 王様の楽園 ミラー フーズフー 時の風 リーバイ ゴユリ レイキャ ブラン フリップ ショット ホイール ガーデ アルフ

ところが、話してみれば理恵も崇のことを中学時代から想っていた。つまり、二人は両想いの事実を今日まで知らず、過ごしてきたのである。互いの想いを知った二人は我慢できず、脇谷に内緒で交際を始めてしまう。再び燃え上がった想いが二人の身体をも交わらせるのに、そう時間は掛からなかった。

脇谷に本当のことを告げられない背徳感の中、交際を続ける二人。特に崇は親友との板挟みに苦しみながら、理恵の身体を求め続ける。そんな彼に理恵もいつしか性の悦びに目覚め、自ら進んで身体を開くように。場合によっては、山本のり子や大沢ひな子も崇と肉体関係を結びつつ、事態はより混迷の方向へと向かう。

崇と理恵の恋心、崇と脇谷の友情が織り成すエスカレーターの行き着く先は…。

黒崎 崇(くろさき たかし)
本作の主人公。姓名は変更可能。中学時代はサッカーに勤しむ一方で理恵のことを想っていたが、告白できない内に卒業を迎える。高校に入ってからは悪友の脇谷達との日々を過ごしていたが、彼に理恵との仲を取り持つよう頼まれたことがきっかけで、彼女への想いが再燃。脇谷への背徳感を抱えたまま、理恵との交際を始める。
河合 理恵(かわい りえ)
声:静木亜美
誕生日:5月28日(ふたご座)
本作のヒロインで、崇とは中学校が一緒。脇谷に惚れられるが、実は崇のことをずっと想っていた。表向きは脇谷に優しく接しながら、裏では崇と身も心も求め合う関係に…。
山本 のり子(やまもと のりこ)
声:三五美奈子
誕生日:12月12日(いて座)
サブヒロインの一人。ファッションモデル志望で、良質なプロポーションとそれに見合った色気を持つ短大生。崇とのセックスもお手の物。
大沢 ひな子(おおさわ ひなこ)
声:藤田夏海
誕生日:5月11日(おうし座)
サブヒロインの一人。幼顔かつ幼児体型のロリータ系だが、精神年齢は高めな小悪魔で、会話の際もセックスの際も常に崇を蔑む。
田代 美紀(たしろ みき)
声:友永朱音
尻軽な容姿をした茶髪娘。あることがきっかけで脇谷に惹かれていく。
佐倉 真由美(さくら まゆみ)
声:伊藤瞳子
誕生日:4月3日(おひつじ座)
理恵の友人で、いわゆる優等生。崇や脇谷のような劣等生を蔑視しているため、崇が理恵と付き合うことも認めていない。実はのり子を上回る巨乳。
脇谷 徹(わきや とおる)
崇の悪友だが、根は良い人物。理恵に惚れており、自分との仲を取り持ってくれるよう、崇に頼むが…。

2009年01月28日

田辺城の戦い

田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)とは、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(1600年10月12日)にかけて、丹後国の田辺城(現在の京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦い。
プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

経緯
豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康は慶長5年(1600年)、度重なる上洛命令に応じない会津の上杉景勝を逆臣として討伐すべく、会津攻めを開始した。そして家康らが軍勢を率いて東に向かったため、畿内一帯は軍事的空白地域となった。これを見て、かねてから家康と敵対していた石田三成は、豊臣氏擁護の立場から挙兵した。これにより、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による東西合戦が幕開けすることとなる。

石田三成ら西軍は、まずは畿内を制圧すべく、家康方についた畿内の諸大名の制圧に務めた。そのひとつに、丹後の細川忠興の居城・田辺城があった。細川忠興は豊臣氏の武断派の一人で、石田三成とはかねてから対立していた。このため、東軍に与して会津攻めに参加していたのだが、石田三成はその田辺城を制圧するために、西軍に与した小野木重次(小野木公郷)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政ら、丹波・但馬の諸大名を中心とした軍勢、1万5000人に攻撃させたのである。

このとき、田辺城は忠興の父・細川幽斎が留守の兵、500人で守備していた。幽斎は頑強に抵抗したものの、やはり援軍の見込みのない籠城戦の上、兵力の差がありすぎたため、7月19日から始まった攻城戦は、7月末には落城寸前となったのである。しかし、小野木ら西軍の諸将の中にも、幽斎を歌道の師匠として仰いでいる者も少なくなかった。そのため、田辺城を攻め落とすことに躊躇していたのである。

一方、朝廷の後陽成天皇は、幽斎が討死することを恐れた。なぜならば、幽斎は三条西公条から歌道の奥義を託された古今伝授の中継ぎ継承者だったからである。そのため、天皇は家臣を遣わして開城を勧めたが、幽斎にも武士としての面目があったためにこれを拒絶し、古今相伝の和歌集に証明状を添えて天皇や八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に進呈するに留まった。

だが、天皇はあくまで幽斎の身を惜しんだ。なぜならば、幽斎は歌道の達人だっただけではなく、足利義昭時代から公家とも親密な関係にあったからである。そのため、天皇は三条西実世(大納言)と中院通勝(中納言)、烏丸光広(中将)の三人を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、勅命講和を命じたのである。勅命ということで、優位であった小野木ら西軍も拒絶することができず、9月6日に幽斎は西軍に田辺城を開城して明け渡し、敵将・前田茂勝の居城である丹波亀山城に入った。

意義
この田辺城の戦いは結果的には西軍の勝利であるが、戦略的には敗北であった。なぜならば、9月6日に幽斎を降した小野木らの丹波・但馬の諸大名を中心とした西軍は、それから9日後の関ヶ原本戦に間に合わなかったからである。1万5000人の兵力が本戦に参加できなかった意味は大きい。ここにも、西軍の作戦ミスがあったといえる。

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)に起こった北陸地方における前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の戦い。

経緯
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する。これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成や大谷吉継らが慶長5年、会津攻めに向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵したのである。

前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、家康の謀略により生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は大大名である前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した。

青木一矩(北之庄城8万石)
青山宗勝(越前丸岡4万6000石)
織田秀雄(大野5万石。織田信長の次男・織田信雄の子)
木下頼継(2万5000石)
丹羽長重(加賀小松12万5000石。信長の家臣だった丹羽長秀の子)
丹羽長正(越前東郷5万石。長重の弟)
戸田重政(越前安居1万石)
奥山正之(1万1000石)
赤座直保(1万石)
上田重安(1万石)
溝江長晴(1万石)
山口宗永(加賀大聖寺5万石)
山口修弘(1万3000石。宗永の長男)。
吉継の勧誘工作は大成功であった。これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功したのである。これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人の大軍を率いて慶長5年7月26日、西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ3000名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で圧倒的優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして8月2日に包囲攻撃を開始したのである。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害して果てた。

一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、西軍首脳として上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、8月3日に入ってようやく越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。そこで、吉継は得意の謀略を見せる。もともと、吉継は秀吉から奉行として用いられていたが、「100万の大軍を指揮させてみたい」とまで秀吉に言わしめたほどの名将だったのである。

吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流したのである。この流言に前田利長は動揺した。

さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)という人物を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた。その文面は次の通りである。

「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」

これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れた。そして8月8日、利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのである。

浅井畷の戦い
しかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたのである。このため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが、やはり2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した。

小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした。8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた丹羽軍が襲いかかった。いくら大軍とはいえ、左右から襲われてはたまったものではない。しかも畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は大被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍や山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのである。

影響
この戦いは、北陸における「関ヶ原合戦」であった。8月末、利長は家康の命令を受けて美濃関ヶ原に進出するべく再び行動を起こす。丹羽長重は利長に降伏を申し入れたが、遂に関ヶ原本戦には間に合わなかった。

しかし、北陸における西軍の奮戦は報われなかった。9月15日の本戦で西軍が壊滅したことから、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易されてしまったのである。

上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。

この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、1585年(天正13年)の戦を第一次、1600年(慶長5年)の戦を第二次とし区別する。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、徳川氏の下で小県郡を平定し、上田城を築城した。

この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。

合戦の経過
第一次上田合戦
この戦いに限り、神川合戦とも呼ばれる。

第一次上田合戦(神川合戦)
戦争:上田合戦
年月日:1585年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力
真田軍 徳川軍
指揮官
真田昌幸
真田信幸 鳥居元忠
大久保忠世
平岩親吉
戦力
2,000 7,000
損害
21?40 1,300(300人という説も)

天正10年(1582年)3月、織田信長が行った武田征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、武田遺領が空白状態となると越後の上杉景勝や相模の北条氏直、徳川氏など近隣勢力が侵攻し、武田遺領を巡る天正壬午の乱が起こる。

甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属するが、徳川が東信濃に侵攻してくると徳川方に寝返る。

10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。

翌天正11年から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。

天正13年(1585年)には甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。

徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約2000人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍はわずか21?40人ほどの犠牲ですんだ。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。

真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数カ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。

上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。

尚、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

第二次上田合戦
第二次上田合戦
戦争:上田合戦
年月日:1600年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力
真田軍 徳川軍
指揮官
真田昌幸
真田信繁 徳川秀忠
戦力
2,000 38,000

昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの征伐(小田原合戦)により滅ぼされ、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・信繁とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて、まずは無難に昌幸に対して開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意したとされる。このとき本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。そして牧野康成率いる手勢が昌幸の挑発に乗ったのをきっかけに戦端が開かれると、昌幸はわずか2000の兵力で徳川軍をかき回して混乱に陥れた。

兵力的に圧倒する徳川軍であったが、地形的に兵力の優勢を生かし切れず、逆に地形を完全に掌握している地元の真田軍に巧みに翻弄され、敗北を喫したのである。このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで、美濃で行われた関ヶ原での決戦に秀忠軍を遅参させることに成功したが、肝心の関ヶ原では西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。

この2回の合戦について
この第一次、第二次の上田合戦は、それぞれ性格が異なる。

第一次は徳川氏と北条氏の和睦に伴う沼田領の帰属問題に端を発し、北条氏への沼田領引き渡しを求める徳川氏とそれを拒絶する真田氏の領地争い(意地の張り合い)の色合いが濃い。殊に真田氏にとっては、武田の旧臣から信濃の独立勢力として認められることが最重要であり、最後まで意地を張り通すことになる。結果的に徳川を撃退することで、真田の名を豊臣氏を始めとする有力緒将に知らしめることに成功した。

しかし、第二次では豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)の軍事衝突(関ヶ原合戦)が避けられない状況下で、昌幸と昌幸の二男信繁が豊臣方(西軍)についたことが起因している。信濃国の大名がこぞって東軍に与するなか、あえて昌幸と信繁が西軍に与した理由は諸説あるが、昌幸の五女が石田三成の妻の実家である宇田氏に嫁いでおり、しかも昌幸二男信繁も三成と親交があり西軍に与した大谷吉継の娘を妻にしているという姻戚関係が、昌幸・信繁父子の選択に重要な影響を及ぼしたと言われている。逆に、昌幸の長男信幸は徳川家康の養女である小松殿を妻にしていたため、東軍として上田攻めの徳川秀忠隊に加わっている。この選択は、大名家としての家名存続を最優先と考えていたともされ、「名を売った」第一次とは根本的に異なる。

この2度の戦い通じて、真田昌幸という武将の名は「戦巧者」として全国に知られることになる。

2009年01月20日

スカウトのちかい

私は、名誉にかけて、次の3条の実行をちかいます。
1. 神(仏)と国とに誠を尽くしおきてを守ります。
1. いつも、他の人々をたすけます。
1. からだを強くし、心をすこやかに、徳を養います。

スカウトのおきて
スカウトは誠実である
スカウトは、信頼される人になります。
真心をこめて、自分のつとめを果たし、名誉を保つ努力をします。
スカウトは友情にあつい
スカウトは、きょうだいとして仲よく助け合います。
すべての人を友とし、相手の立場や、考え方を尊重し、思いやりのある人になります。
スカウトは礼儀正しい
スカウトは、規律正しい生活をし、目上の人を敬います。
言葉づかいや制服に気をつけ、行いを正しくします。
スカウトは親切である
スカウトは、すべての人の力になります。
幼いもの、年寄り、体の不自由な人をいたわり、動植物にもやさしくします。
スカウトは快活である
スカウトは、明るく、朗らかに、いつも笑顔でいます。
不平不満を言わず、元気よく、進んでものごとを行います。
スカウトは質素である
スカウトは、物や時間を大切にします。
むだをはぶき、ぜいたくをせず、役立つものは活用します。
スカウトは勇敢である
スカウトは、勇気をもって、正しく行動します。
どんな困難なことがあってもくじけずに、新しい道をきり開きます。
スカウトは感謝の心を持つ
スカウトは、信仰をあつくし、自然と社会の恵みに感謝します。
お礼の心で、自然をいつくしみ、社会に奉仕します。
なお、創立当初よりのおきては12項目あったが1988年に現在の8項目へ整理統合された。以前の 12項目のおきては米国スカウト連盟 (Boy Scouts of America) が現在も使用しているものに近く、それらは順に「誠実である」「忠節を尽くす」「人の力になる」「友誼に厚い」「礼儀正しい」「親切である」「従順である」「快活である」「質素である」「勇敢である」「純潔である」「つつしみ深い」となっていた。

カブスカウトのやくそく
ぼく(わたくし)はまじめにしっかりやります
カブ隊のさだめを守ります

カブ隊のさだめ
カブスカウトは すなおであります
カブスカウトは 自分のことを自分でします
カブスカウトは たがいに助けあいます
カブスカウトは おさないものをいたわります
カブスカウトは すすんでよいことをします

ビーバースカウトのやくそく
ぼく(わたくし)はみんなとなかよくします
ビーバー隊のきまりをまもります

ビーバー隊のきまり
ビーバースカウトは げんきにあそびます
ビーバースカウトは ものをたいせつにします
ビーバースカウトは よいことをします

モットーとスローガン
スカウトのモットー(規範)は、『そなえよつねに』(備えよ常に、Be Prepared)。

「いつなん時、いかなる場所で、いかなる事が起こった場合でも 善処が出来るように、常々準備を怠ることなかれ」という意味である。

ビーバースカウトのモットーは『なかよし』、カブスカウトのモットーは、『いつも元気』である。

スローガンは、『日日の善行』(一日一善、 Daily Good Turn. または Do a good turn daily. )。

この『日日の善行』のような言葉が、ボーイスカウトの逸話『アンノウン・スカウト(無名スカウトの善行)』に登場する。

敬礼とサイン

ボーイ隊以上
「ちかい」の3項目にちなみ、3本指(人差し指・中指・薬指)だけを伸ばした挙手注目の敬礼が、礼式の一つとして定められている(三指(さんし)の敬礼、三指礼(さんしれい)と呼ばれる)。
アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

この三指の敬礼については、「無名のスカウト戦士( Unknown Soldier 。注:無名スカウトの善行 (Unknown Scout Story) とは別)」という逸話が残っている。第二次世界大戦末期、戦場で負傷し身動きできなくなった米軍兵士が日本兵と遭遇した。意識を失った彼を日本兵は殺さず、傷の手当てをして立ち去った。米軍兵士の手元に残されていたメモには、「私は君を刺そうとした日本兵だ。君が三指礼をしているのをみて、私も子供の頃、スカウトだったことを思い出した。どうして君を殺せるだろうか。傷には応急処置をしておいた。グッド・ラック。」と英語で記されていた。スカウトだった米軍兵士は、死に瀕して無意識に三指の敬礼をしていたのであった。このエピソードがアメリカ大統領に伝わり、当時の日本の少年団(現在のボーイスカウト日本連盟)に問い合わせがあったが名乗り出る者はいなかった(この日本兵は戦死したのではないかと言われている)。後に、日本中のスカウトの募金によって、神奈川県横浜市の「こどもの国」にこの無名のスカウト戦士の記念像が建立された(無名スカウト戦士の記念像の作製の際に作られた木製の原版は、栃木県那須野営場入り口に鎮座してある)。

ちなみにスカウト同士の手紙では、拝啓と同様の扱いとして「三指」を、敬具と同様の扱いとして「弥栄」という字を添え、敬意を相手に伝えることが多い。

カブスカウト
「カブ隊の約束」にちなみ、2本指(人差し指・中指)だけを離して伸ばし、挙手。2本の指を開きV字にするのは、2本の指を動物の耳と見立てているためである。

ビーバースカウト
「ビーバー隊の約束」にちなみ、2本指(人差し指・中指)だけをくっ付けて伸ばし、挙手。

祝声
世界各国のスカウトは自国語の祝声(Cheer、他者を祝賀、賞賛する際や、再会を約して別れる折などに唱和する掛け声のこと。一般に用いられる万歳のようなもの)を持っている。

ボーイスカウト日本連盟の祝声は、弥栄(いやさか)である。

またこの祝声はギルウェル指導者訓練所の祝声としても用いられている。これは、1924年、ギルウェル指導者訓練所の所長であったJ・S・ウィルソンから、その時入所していた13国の指導者全員に、各国のスカウト祝声を披露するようにとの命令があった。このとき日本から参加していた佐野常羽が「弥栄」を披露し、「ますます栄える(More Glorious)」という意味であることを説明したところ、ウィルソン所長は、「発声は日本のものが一番よい。そのうえ哲学が入っているのが良い」と賞賛し、以後、ギルウェル訓練所の祝声を「弥栄」とすることに定められたものである。

組織

全国組織
理事会
常任理事会
中央名誉会議
委員会
評議員会
教育本部
教育本部コミッショナー
教育本部会議
常任教育本部会議
常設委員会
特別委員会